京都・東山、南禅寺畔。路地を入ると静かに佇む草庵風の建物がある。小旗が風に揺れ、床机には煙草盆、脇には茶壷と水瓶が置かれ、古びた草鞋が掛けられている。「瓢亭」。創業400年の歴史を持ち、懐石料理の最高峰と名高い名料亭がそこにある。
text: 加藤紀子(編集部) 構成: 羽田祥子(編集部)

 幕末の書物『花洛名勝図会』で、瓢亭は京都の名勝のひとつに数えられている。創業は絵図による記録よりもはるかに遡る。400年ほど前、南禅寺境内の門番所を兼ねて、南禅寺門外松林茶店(腰掛茶屋)としてのれんを掲げたのが始まりと伝えられている。この地は当時、東海道の裏街道筋であったことから、京へ上る旅人はここで旅衣を更え、草鞋を新たにしたと言われている。現在も玄関の床机などは当時の名残を留める。
 伝統の一品「瓢亭玉子」は、庭で放し飼いにしていた鶏の卵を茹でて旅人に出したのが始まりである。行き交う旅人から「茶菓子以外にも何か出してほしい」と言われ、卵を湯掻いて出したところ、非常に喜ばれた。当時は卵を煮抜きして食べる(=ゆで玉子)ことは珍しく、また卵そのものが大変貴重な食材であったという。
 時を経て天保8年(1837年)。料亭ののれんを掲げ、高級懐石料理店として、明治維新で活躍した山縣有朋や品川弥二郎、近世の文人、頼山陽らに深く愛された。「一子相伝半熟鶏卵 可愛い殿御(=天皇)に食わせたい のみ人知らず やじろ題す口拝」とは明治天皇の教育係であった品川伯爵の記述である。
 瓢亭は、政治の中核を担った元勲など、常に時代を支え、彩った文化人、茶人、経済人が繰り返し訪れる料亭であり続けた。同時に京の旦那衆にも今なお愛され続ける。

伝統の重みを背負って立つ35歳

 茶懐石の看板を守り続けた400年の伝統を、髙橋義弘氏、35歳が背負っている。「小さい頃はあまり料理をしなかったですね。玉子焼きぐらいは焼いていたかな。両親から将来について言われたことはなかったですが、小学校の作文には『料理人になる』と書いていました。自分はそうなるものだと自然に思っていましたから」。父である14代目髙橋英一氏は、京料理を代表する第一人者として広く活躍し、その著書でも知られる。その背中を見て、また、料理人たちに囲まれて、義弘氏は育った。
 料理人としてのスタートは早くはない。「人付き合いも含めて料理以外のことを学べるのは今しかないと思ったので、大学に進み、経営学を学びました。昔は、中学卒業後すぐこの世界に入ることが一般的でしたが、今は、高校を卒業後に専門学校で1年間料理の基礎を修めてから、という人が多いですね。大学卒業後でも遅くはありません」。

瓢亭15代目若主人 髙橋義弘氏

 義弘氏は大学卒業後、金沢の料亭「つる幸」で修業し、25歳の時、父の元に戻った。「我々は店で料理をするだけでなく、仕出しの仕事が多いのです。お弁当のお届けだけでなく、お客様の台所で料理をさせていただくこともあります。光悦会(日本で最も有名な茶会。京都の光悦寺で毎秋開催)では3日間で2000人分の点心を用意します。祇園のお茶屋さんに上がって懐石をお出しすることもよくあります。お客様のお宅に上がり、料理や器を用意し、作ってお出しするには相応の修業が必要です。任せられるようになるには10年はかかります。特に京都の文化人の方々は礼儀に厳しいですから」。
 茶懐石においては、料理を取り巻くすべてについて、季節や場に相応しい品を選ぶ才覚が求められる。掛け軸の意味、花の名、器の歴史など、料理以外に学ぶことは多い。それらは仕事や茶道の稽古などを通して自然と頭に入っていくのだという。茶道家元、器の名家、道具屋など、その分野に卓越した客をもてなすたび、代々受け継がれた伝統の品々を手にしながら、それらが持つ歴史の重さを肌で感じ、学ぶ。

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