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【世界の名手たちが発見した定石】定石1

書籍「ゴルフ金言集」より

【世界の名手たちが発見した定石】定石1

スコアをごまかさなかった私をほめてくれるのは、※1
銀行強盗をしなかった私をほめてくれるようなものである

――ボビー・ジョーンズ

1928年度の全米オープン選手権試合のときのはなしであるが、ボビー・ジョーンズは、誤って球を深い草むらの中に打ち込んでしまった。さて、スイングしようと、彼が球に向かって身構えたとたんに、球が動いたように感じた。そばで見ていた人はひとりもいない。しかし、「打とうとして一度球に向かって身構えをした以上、たとえ風のせいであろうと、球が動けば罰打1が加えられる」のが、ゴルフの規則である。※2
3970342_l ボビーはいさぎよく、みずからすすんで、その事実を相手に話し、一打罰を自分のスコアに課したのである。不幸にもこの一打は、彼の単独優勝をはばんで、ウィリー・マックファーレンと同点の一位になり、優勝決定戦には惜しくも負けて、貴重な優勝を逸したのである。
 しかしこのことは、当時の新聞、雑誌でいち早く天下に報道され、ボビーの紳士的なプレーは、万人の賞賛を博したのである。ところ当のボビーは、あまり自分の行動に対する賞賛の声が高いのを聞いて「自分は当然すべきことを、ルールに従ってやったまでだ。ゴルフのプレーの方法はただ一つしかない。それは正しいゴルフをプレーすることである。」と、平然としていたという。
 この心構えがあってこそ、彼は、世界ゴルフ界に、いままでも、また今後もないであろうといわれるほどの名手になったのである。
 正しいゴルフは、けっして大選手にだけ要求されるものではない。ハンディ36のビギナーでも、ゴルフが上達したいと願うなら、ただ一つのプレー方法である、正しいプレーをしないと、終生ゴルフに勝つチャンスがなくなる。(以上原文)

現代解説とこぼれ話

 ゴルフがほかのスポーツと明らかに違うのは「自己申告」のスポーツだということです。それは不利・有利など考慮でどうにかなるものではありません。たとえば野球で「タッチアウト!」と審判が下したとき、当の本人が「すみません、実はタッチしていませんでした」なんてバカ正直に申告する選手(少なくともプロの世界では)はいませんし、もし正直に申告したとすればチームメートや監督からこっぴどく怒られるに違いありません。ゴルフをプレーする人間でごまかしたいと衝動がよぎった人、もちろんごまかしてしまったことがある人も少なくないでしょう。
 明治生まれの親父も昭和生まれの私も60年ほどゴルフにかかわってきました。年代が違えど共通していえるゴルフ慣例がいくつかあります。その中のひとつに「過少申告をする人はゴルフのキャリア、学歴・社会的地位など一切関係なくする人はする」ということです。相手の地位や立場がどうであれ過少申告の指摘を潤滑に改めさせる方法があります。それは「A社長、8ですか?! そんな打ってないでしょう!! えっとあそこでOBしましたけど……」と親切な気持ちで一緒に数えてあげるだけです。同伴プレーヤーにカウントバックされたら過少した当の本人は「あれ! 9でした?」ととぼけながら正しいストロークを申告せざるを得ませんよね。そしてその人も、「やっぱりごまかすのは気分がよくないよな」と考えが改まるはずです。


解説 : 広瀬義晋(ひろせ よしくに)

関西学院大学卒。著者の三男。同級生である中部銀次郎とともにジュニアよりゴルフ界で活躍し1966年には世界アマチュア選手権メキシコ大会の代表選手として参戦。1964年関東アマチュア選手権者。

※1 直訳だが、意図としては「誰も見ていないペナルティを自分に課した私をほめてくれるのは」という意に近い。
※2 当時は一打罰であったが、現在2014年12月の時点ではアドレスに入っていてもいなくても球がプレーヤーの故意ではない状況(風、枝葉など重み、地震などの自然現象)で動いた場合は動いた場所からのプレー続行。これに関しては無罰である。ただし同伴競技者の同意が必要である。

ゴルフ金言集『ゴルフ金言集』とは、

光文社カッパ・ブックス昭和40年初版発行の当時ではまだ珍しいゴルフ指南書。著者が交流を深めていたサム・スニードなど国内外の名手とのこぼれ話や世界のトッププレーヤーたちが残したゴルフの金言名句を日本語訳し解説。当時のベストセラーとなる。

広瀬義忠著者:広瀬義忠(ひろせ よしただ)

明治30年大阪生まれ。慶應大学経済学部卒。商社マンとして世界を回っているときに、英国でゴルフと出会いゴルフの魅力にとりつかれる。ついには商社を辞めて富士のすそ野に自ら設計したゴルフ場を造る。晩年はゴルフ評論家、著述家として「アサヒゴルフ」「ゴルフジャパン」などに執筆。昭和33年度関西シニア選手権者、富士平原ゴルフクラブ理事長などゴルフ漬けのまま生涯を終える。

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