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【今、伝えたいビジネスのヒント】だれもやらない、だからチャレンジする

【今、伝えたいビジネスのヒント】だれもやらない、だからチャレンジする

レイコ B. リスターさんといえば、戦後の日本で女性の社会進出の先陣を切ってさまざまな挑戦を重ねてきた、働く女性のパイオニア的な存在だ。
女性の地位向上にも貢献してこられたが、悲壮な決意で新しい道を開いてきたというより、並外れたバイタリティで仕事を楽しみ、心の赴くままにチャレンジを繰り返してきたことが、輝かしい足跡を残すことにつながったのではないかと思える。
日米の化粧品業界を舞台にした、リスター社長の半世紀にわたる奮闘ぶりについて聞いた。

英語を武器に自力で人生を切り開く

──リスター社長は早くから世界を舞台に活躍されてきましたが、学生時代から英語はご堪能だったのですか。
リスター 当時は女学校から新制高校へと移行したばかりの時期で、そこで英語を学ぶ機会が訪れたのですが、自分に向いていたのか、あまり苦労せずいい成績を収めることができました。やがて、交換留学の推薦を受けられるまでになったのです。
ところが、戦災で実家は家も財産も失った上、母を病気で亡くしたこともあって、留学は断念せざるを得ませんでした。小学生の頃から決められていた大学進学もあきらめるしかなく、当時まだ10代でしたけれど、これからの人生は自分の力で切り開くしかないと考えました。
そこで、まず英語力に磨きをかけようと、高校卒業後は英語の専門学校に通い、米軍基地で秘書のアルバイトなどを始めました。
──その後、ファッションモデルや映画女優などの仕事もなさったとか。そして、23歳で結婚されたのですね。
リスター 相手はアメリカ人で、海兵隊の将校でした。住み込みのハウスキーパーと通いのメイドがおり、娘も授かって何不自由のない生活を送っておりました。
ただ、家計を管理するのは夫で、ちょっとした買い物でも夫に頼んでお金を出してもらうアメリカ式の生活スタイルに不満があったのと、家庭にこもるだけの生活に飽き足らず、仕事をして社会との接点を持ちたいという思いが日に日に膨らんでいきました。
──それで、マックスファクターに入社された?
リスター ジャパンタイムズの求人欄で、マックスファクターが翻訳者を募集するという広告を目にし応募したのです。応募者は40数名いましたが、幸運にも私が選ばれました。
翻訳担当として入社したのですが、会社からの指示で翻訳以外の仕事もすることになりました。何でもやろうという意欲があり、よくしゃべり、ものも書くということで、重宝がられたのだと思います。イベントなどがあれば引っ張り出されたり、テレビCMの台本を書いて自ら演じるということもありました。
──会社に対して提案を行ったこともあったとか。
リスター 幹部教育の必要性を訴えました。マックスファクターは当時、店頭でお客様に商品をお勧めする美容部員を全国で千数百名抱えておりましたので、現場の美容部員を束ねる幹部に対しては、レベルの高い教育をすべきだと考えたのです。
すると、ハリウッド本社がその提案を評価してくれました。そして、自分が携わるとは思っていなかったのですが、提案した私が担当するよう本社から指示されたのです。これで活動の場がさらに広がることになりました。

後に続く女性たちのために人の3倍働く

フランス国家功労勲章「シュヴァリエ」を受勲した際の賞状(左上)とともに

フランス国家功労勲章「シュヴァリエ」を受勲した際の賞状(左上)とともに

──その後、大手製薬会社のファイザーに転職されました。
リスター 私のことをどこかで耳にしたのか、ファイザーがコティというフランスの化粧品会社を傘下に収めたので、その担当として来ないかとお誘いを受けました。提示されたのは美容部次長というポストでしたが、実質的には部門のトップで、部下のマネジメントや販売数字まで責任を負う仕事でしたので、大きな魅力を感じ転職を決意しました。
入社した翌年には、新たにマーケティング部門が発足することになり、その責任者にと私に白羽の矢が立ちました。当時、日本の産業界でも「マーケティング」は認知されておらず、私にとっても未知の領域でしたので、「マーケティングとは何ぞや」から勉強する必要があったのですが。
──年齢的にも大抜擢だったのでは?
リスター 当時、私は33歳でした。そのころは日本の会社も含め、大手企業でその年代の女性部長はいなかったはずです。後に続く働く女性たちのために、私が道を開く役割を担わなければと身の引き締まる思いでした。
そんなことから、人の倍では足りない、3倍努力することで「女性でもやれるじゃないか」との評価を得られるのではないかと思い、必死に努力を重ねて、与えられた責任は100%以上達成しました。
──その後はアメリカに居を移し、華々しくキャリアを積んでいかれました。
リスター きっかけは離婚を決意したことで、その手続きのために退職して渡米するしかなかったのです。
離婚が成立すると、このアメリカの地で自分の力を試してみたい、という気持ちが湧いてきました。そして、エスティ ローダーでの営業の仕事を皮切りに、資生堂アメリカでは全米美容部長を務め、さらに化粧品販売の専門職を育成する学校を自ら設立するなど、さまざまな経験を積んでいきました。
その後、レブロンから日本での事業立て直しと新ブランド導入を依頼され、久しぶりに帰国することになりました。会社との約束どおりミッションは2年で達成、日本での事業に貢献できたと思います。
さあアメリカに戻ろうと思った矢先、今度は古巣のマックスファクターから、新たに傘下に収めたフランスの高級化粧品「オルラーヌ」を日本に導入したいので、日本の事業会社のトップを引き受けてほしい、という依頼が舞い込みました。
無名のブランドをゼロから立ち上げるという、リスクの大きい事業だったのですが、「だれもやっていないこと」にチャレンジしたいという思いに駆られ、引き受けることにしたのです。

内向きにならず、もっと世界に目を

──レブロンでは出世が約束されていたのではないですか?
リスター 難しいミッションをクリアできたわけですから、ニューヨーク本社に戻れば相当なポジションが用意されていました。当時、ジェットセッターという言葉がはやっておりましたが、ニューヨーク五番街のオフィスを拠点に、ブランドの責任者として全世界を飛び回る……という生活が、すぐ目の前に見えていました。
レブロンはあの手この手で引き留め攻勢をかけてきましたが、結局自分にとって一番つらい道を選択する決断をしました。
新会社のオルラーヌ・ジャポンでは、自ら一流の百貨店と交渉し、ブランドを導入してもらうことに成功しました。着々と地歩を固めていきましたが、その後アメリカ本社が資金難となり、当初予定していた日本への投資ができなくなってしまったのです。
このままでは撤退せざるを得ないという状況でしたが、自ら開拓した百貨店に本社の都合で撤退することになったと告げるのは申し訳なく、それなら自分で引き受けてしまおうと、エル・インターナショナルを設立しました。1979年のことです。
──必要に駆られて起業したということですね。
リスター いわば責任感から会社を立ち上げた、といえるでしょう。ともかく会社を作る以上は、自分の持っている知識や経験、人脈をフルに生かし、日本初の女性による海外化粧品の専門商社と位置付けて事業をスタートしました。
会社を興してみると、やはり会社員時代とは別の苦労があり、順風満帆というわけにはもちろんいかなかったですが、引き受けたブランドをきちんとした形でこの世の中に残すということを自分へのミッションとして、がむしゃらに働いてまいりました。
──若い世代に向けて、ぜひアドバイスをお願いします。
リスター 最近は起業する方が増えているようですね。すばらしい発想力のある方、才能がある方たちが活躍されているのは嬉しい傾向です。
ただ、事業を興すということには責任が伴います。社員を一人でも雇えば、その社員に対する責任が生じるのです。会社員時代と180度違うのは、給料をもらう側から支払う側に変わるということ、これを自覚してほしいですね。
それと、海外への留学希望者が減少するなど、若い世代全体が内向きになっているように感じます。自分の世界にこもっていた方が誰しも楽ですけれど、私のように若いころから外の世界に打って出たいと願っていた者からすると、歯がゆく思えます。
海外に一度は出る機会を持ち、違う文化、違う価値観に接する経験をぜひしていただきたいです。そうすることで、人としても成長できると思います。


レイコ B. リスター
エル・インターナショナル代表取締役社長。1934年東京生まれ。ファッションモデル、女優などを経て、57年結婚。60年マックスファクター日本支社に翻訳スタッフとして入社。その後、ファイザー・コーポレーションにスカウトされ、コティ事業部のマーケティング幹部に。69年渡米し離婚後、エスティ ローダー社を経て、71年資生堂アメリカに全米美容部長として入社。74年レブロン社に招かれて来日。日本で高級化粧品ボルゲーゼの事業部長に。77年オルラーヌ・ジャポン社長に就任。79年輸入商社エル・インターナショナルを設立。代表取締役社長に就任。2001年、世界優秀女性起業家賞受賞。2002年、フランス国家功労勲章「シュヴァリエ」受勲。

文|千﨑研司(コギトスム)

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