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【近憂遠慮】富士フイルムの大変革に見る「勝ち方の美学」

ドル箱の写真フィルム
「右肩上がり」の先に見えていた奈落

 富士フイルムは、その卓越した技術力で、写真用フィルム市場において圧倒的な存在であった。レンズ付きフィルム「写ルンです」などのヒット商品を生み、古森氏が社長に就任した2000年には、写真事業は同社の営業利益の約3分の2を稼ぐ大黒柱だった。
 当時の事業の柱は、写真に関連するイメージングの他、印刷・製版に関連するグラフィックアーツ、医療用画像診断装置や材料に関連するメディカルシステムであった。いずれも技術的ハードルが高い分野であるが、早い時期から自社での生産を開始し広く市場で展開してきたことから、市場でのプレゼンスは高かった。安定した収益が得られる安泰な企業、と誰もが感じていたに違いない。
 しかし、「デジタル化の波の到来というのは、1980年代から既に見えていた」と古森氏は当時を語る。同社の基幹事業もこの波にのまれてしまう――「いずれ銀塩カメラもフィルムも他の産業用途のフィルムも要らなくなる時代がくることは自明でした」
 デジタル化の市場への浸透は、グラフィックアーツやメディカルシステムの分野から始まり、そしてイメージングの分野へと続いた。
 グラフィックアーツの分野では、1979年にイスラエルのサイテックス社によりNASAの技術を応用したコンピュータによる電子製版システムが開発された。その後、コンピュータの性能向上や価格の低廉化に伴い、編集から印刷に至るまで、出版業におけるデジタル化が進むこととなる。
 また、メディカルシステムの分野では富士フイルムが先陣を切った。83年、同社開発の世界初のデジタルX線画像診断システムFCR(Fuji Computed Radiography)の販売を開始。従来のX線フィルムに代わり、イメージングプレート(IP)に記録したX線画像情報を読み取り、最適なデジタル画像処理を行うことで、高精度の診断画像を生成する方式だ。

 一方、同社の大黒柱であったイメージング分野では、81年にはソニーがデジタルカメラの前身のフロッピーディスクへ記録するCCD(電荷結合素子=光をデジタルデータに変換する半導体デバイス)カメラを発表、その後カシオ、キヤノンも同方式のカメラ開発に続いたが、富士フイルムは、88年に世界初の画像記録もデジタル方式のフルデジタルカメラ「DS‐1P」を開発した。
 自社の稼ぎ頭であるアナログフィルムを駆逐しかねないデジタル技術。だが、研究開発を止めるという選択肢はなかった。
「自分の首を絞めるようなことをなぜやるのだ、と揶揄されましたよ。しかし、いずれ誰かがやるのなら、うちが先陣を切ろうという思い切った決断でした」
 感度や解像度で進歩の余地があった銀塩の技術を向上させ、デジタル時代の本格的な到来まではアナログフィルムの高品質化で生き延びつつ、デジタルイメージング技術に関わる研究開発費は継続して投入してきた。

デジタル化だけで勝てるか

 だが、古森氏は早くから察知していた。「単なるデジタル化への傾倒だけでは不十分だ」と。写真フィルム全盛の時代だ。この危機感に共感できる仲間が何人いただろう。
「写真フィルム全盛の時代、まだ若かった私はとてもイライラしていました。従来の写真技術は、他社参入が容易ではなく、世界的にも生き残った会社が少なかったために、非常に収益性が高い分野でした。ところが、デジタルは普遍化しやすく、コア技術をブラックボックス化することは容易ではありません。
 デジタル化への対応だけでは、会社としては生き残れるかもしれないが、7万人もの社員がいる規模には到底見合わず、縮小均衡せざるを得なくなるのが目に見えていました。 つまり、富士フイルムがリーディングカンパニーであり続けるためには、新たな道を探す必要があったのです。
 最大のライバルであった強豪コダックは、資本力を活かし、デジタル技術の会社や製薬会社など、数々の企業買収を手掛けており、私は当時の大西社長に『今、もっと積極的な投資をすべきでは』と進言したこともありました」
 富士フイルムもコダック同様、新たな道を模索した。しかし、写真フィルムに比べると、どれも予想される利益率が格段に低かった。
 例えば創薬。ノーベル賞受賞者である利根川進氏とガン治療薬の共同研究を始めたが、莫大な開発費と時間を要した。インクジェットや光ディスクなども試みた。しかし、結果的には、開発を中止して技術者が他社に流出したり、事業ごと売却せざるを得なかったりと、いずれも中断した結果となった。

 デジタルカメラ分野では、98年、満を持して発売した、独自開発のCCDを搭載したFinePix700が爆発的にヒットした。これをきっかけに、その後富士フイルムのシェアは約30パーセントを占め、数年間は世界シェアトップであった。「これは、もしかしたらフィルムの代わりになるかもしれない」と社内が淡い期待を抱いていたが、すでに市場参入していたカシオ、オリンパスに続き、ソニー、ニコン、キヤノン、パナソニックなどカメラメーカー、電機メーカーも参入し、デジタルカメラ市場は瞬く間に厳しい価格競争に陥った。古森氏が懸念した通り、差別化の難しい世界では、利益率は下がる一方だった。
 追い打ちをかけたのは写真フィルム需要の激減だ。古森氏が社長に就任した2000年をピークに年率25%で減り続け、4~5年で赤字に転落という恐ろしいスピードだった。
「写真フィルム市場は縮小の一途をたどるばかりで、頑張るといって済むようなレベルの問題ではありませんでしたね。この危機をどう乗り切るか。他の誰でもない、社長である自分が考えなくてはならないと思いました。社長は企業という組織の中で決定権を持っています。だからこそ、社長がしっかりと危機意識を持って自分で考えなければならない。そしてその考えを実行に移すことで、この困難を乗り切ることができるはずだという強い確信と大きな責任を感じました」


古森重隆(こもり・しげたか)
長崎県出身。東京大学経済学部卒業。1963年富士写真フイルム(現富士フイルムホールディングス)入社。95年取締役営業第二本部長、96年富士フイルムヨーロッパ社長などを経て、2000年~CEO。07年6月~08年12月NHK経営委員会委員長も務めた。

文:加藤紀子(編集部)

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