ホーム / Column / 提言 / 【提言】 急往美濃國・告安八磨郡湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當郡兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路
【提言】 急往美濃國・告安八磨郡湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當郡兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路

【提言】 急往美濃國・告安八磨郡湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當郡兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路

タイトルは壬申の乱が起こった際の大海人皇子の命令。
この時の勝利の要因は、現代ビジネスで生き抜くための大きなヒントになり得る。

大海人皇子の勝因とは?

 我が国の歴史上、最もスリリングな展開を見せる壬申の乱。結局は大海人皇子の圧勝に終わるわけだが、ここで天智系は一旦途絶え、天武系が皇統を継ぐことになる。しかし、約100年後、白壁王が光仁天皇として即位し、世は再び天智系の皇統に戻り、今日に至っている。
 この辺りが、筆者には、日本の歴史の中で最も面白い部分だ。
 冒頭の文章は日本書紀からで672年(天武元年)6月、まさに壬申の乱の幕が切っておろされた日の大海人皇子の命令である。
 日本書紀はもともと天武天皇の命令で書かれたものであるので、その内容が必ずしも史実と一致するかというと疑わしい面も多々あろう。しかし、壬申の乱で大海人皇子が勝利を収めたことは間違いない。
 タイトルとして掲げた文章はその勝利の大きな要因を物語っている。要するに、あちこちの豪族の軍隊を起用して、不破道をまず塞げという命令である。
 大海人側が勝利した大きな要因の一つが伊勢、伊賀、美濃、熊野などの豪族を糾合できたことであった。もし、大海人が吉野を抜け出した時のままの軍勢であったなら、甥の大友皇子の近江朝廷に勝てる可能性は全くなかった。それまでこれらの豪族たちと大海人の皇子との間にどのような関係があったのかは知らないが、この本来身内ではない豪族たちを味方につけたのが勝利の大きな要因であった。

「垂直統合」と「下請け制度」

 翻って昨今の日本のビジネス界、特に製造業を見てみよう。
 多くの電機メーカが、サムソンやLGの攻勢に焦り、いわゆる「垂直統合」方式を採用し、何でも自社で完結しようと考え、それを実施した。もちろん垂直統合をすればコストは下がるし、何よりも「量」の面でのメリットは大きい。スケール・メリット(これは和製英語で正しくは“economy of scale”という)を狙ったわけである。
 これがどのような結果に終わったか、まさにサムスンやLGの思うつぼであった。
 ローマ時代の諺に「non multa sed multum」というのがある。時として「量より質」と訳されるがミスリーディングである。
 日本企業が垂直統合で狙ったのは「向こうが量で来るのならそれより大きな量で対抗しよう」という魂胆であったと思われる。そこにはビジネス自体が持つプロパティ(例えば収益をどのようにあげるか)に対する考慮が薄かったのではなかろうか。力とか量頼りでは勝てないという良い例であった。
 大海人皇子は何でも自分たちだけでやろうとは思わなかった。そんなことをしたら負けるに決まっていたからだ。そこで、直接の命令権は及ばないが、各地の豪族を味方に引き入れて勝利した。当然、勝利の暁にはいろいろな地位とか褒美を提供すると約束したことは疑いがない。
 そういう一種のビジネス・モデルにおいては、日本企業は十分なノウハウを持っている。周囲の主に中小企業を糾合して事にあたるという「下請け制度」である。下請けいじめということもあるが、全体を見回せば、この下請け制度は日本の経済発展に大きな役割を果たしてきた。
 成功体験に酔うことは戒められなければならないが、下請け活用というビジネス・モデルがありながら多くのメーカが垂直統合を試みて失敗した。
 大海人皇子(後の天武天皇)の成功例は、確立したビジネス・モデルとして現代にも十分通用するのである。


石原憲一(いしはら けんいち)

1962年慶應大学卒業(英文学専攻)。日本Olivettiに入社し、ソフトウェア統括部長、子会社社長を経て、1982年GE(ゼネラルエレクトリック)社にて商用ネットワーク部門を担当、電通国際情報サービス常務取締役を兼任。1999年に引退

(前号のタイトル“Note”は“Notte”の間違いでした。お詫びして訂正いたします)

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