ホーム / Column / 提言 / 四年冬十月庚辰、天皇臥病(中略)卽日、出家法服。因以、收私兵器、悉納於司。
四年冬十月庚辰、天皇臥病(中略)卽日、出家法服。因以、收私兵器、悉納於司。

四年冬十月庚辰、天皇臥病(中略)卽日、出家法服。因以、收私兵器、悉納於司。

壬申の乱で起きたこと

国際的なビジネスの場では、常に偽装と裏切りが内在していることを忘れてはならない

 大化の改新の立役者・中大兄皇子が天智天皇として即位すると、多くのことを行ったのだが、その中の重要なことの一つに、天智10年(671AD)、長男の大友皇子を次期天皇に指名したことが挙げられる。23歳くらいの皇子は頼りないと思ったか、天智は弟の大海人皇子(のちの天武天皇)に輔佐を頼んだ。その時の大海人の心境がどうであったかはわからないが、引き受けたとされている。大海人と大友は叔父と甥の関係で、大海人の娘・十市皇女は大友に嫁いでいる。
 その年の9月、天智が病に倒れると、大海人はさっさと吉野に隠棲してしまう。輔佐する気などさらさらないという意思表示であったと思う。そして12月に天智が亡くなると、その翌年に壬申の乱を起こし、娘を嫁がせていた大友皇子を自害に追い込んだ。その年が天武元年とされているのは誠に面白い。この時、大友皇子は25歳であった。
 皇統譜では大友皇子は天智と天武の間の弘文天皇(第39代)となっているがその治世が実質的にどの程度のものであったかは想像に難くない。
 壬申の乱をめぐる情勢を見るときに、果たして天武がいつのころから天智の後を継いで天皇になろうとしていたかはわからない。少なくとも表向きは大友皇子の輔佐役を引き受けていた。それが頭を押さえていた兄の天智が病に倒れると、すぐさま甥っ子の面倒を見ることを放棄して吉野に籠り(表向きは出家)、翌年、兵を挙げる。 こうして第40代天皇として君臨し、間に第45代の聖武天皇を含む9代の天皇を擁して「天武朝」とまで呼ばれたのだが、第49代の光仁天皇(奈良時代最後)で再び天智直系の天皇の誕生に至り、天武朝はその血統による役割を終えた。

ないがしろにされてきた
コンティンジェンシー・プラン

 日本史のことを長々書いてしまったが、天武天皇による兄・天智天皇の遺志への裏切りという事実を見るとき、カムフラージュや裏切りというものが人間社会においては常に起こるということを考えておく必要がある。だから、そういうことは社内でも起こるであろうし、企業間でも起こるのは当然のことである。
 想定外の変化や奇襲は、カムフラージュという形を取るか、あるいは時勢の変化によるものかは色々あるであろう。M&Aにおいてはポイズン・ピルとか焦土作戦もある。
 重要なのは、大きな賭けに出る場合は常に万全を期しておかなければならないということだ。もちろんあらゆることに対して、対策を前もって練っておくということは人知の及ばないことではあるが、想定できることをリストアップするくらいの用心深さが必要なのである。
 これまでのいわゆる「単一民族」内だけで済んできた商習慣は、急速な国際化に伴ってその根本において大きな変化を起こしている。
 色々なビジネス・プランにおいて、これまでの商習慣ではどちらかというと等閑視されてきたのがコンティンジェンシー・プランではなかろうか。「まさかあの人がそんなことをするなんて」ということは、今後、頻発するであろう。それは特に国際的なビジネスにおいては日常茶飯事となろう。
 壬申の乱においても天智・大友側は完成したばかりの戸籍システムで挙兵の容易さをコンティンジェンシー・プランに考えていた節がある。しかし、大海人側の戦略がそれを上回ってしまった。 この教訓は大きい。歴史に学ばなければならない時代なのだ。


石原憲一(いしはら・けんいち)
1962年慶應大学卒業(英文学専攻)。日本Olivettiに入社し、ソフトウェア統括部長、子会社社長を経て、1982年GE(ゼネラルエレクトリック)社にて商用ネットワーク部門を担当、電通国際情報サービス常務取締役を兼任。1999年に退職後もGEに嘱託として残り、同時にKDD、シェル・サービス、JetFormの顧問やコンサルタントとして2003年末まで勤め、現在は長野県の森の中で隠遁生活中

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