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‘Ev αρχη ην ο Λόγος

‘Ev αρχη ην ο Λόγος

「Λόγος」が示すもの

 新約聖書はキリストの死後数十年経ってから弟子たちによってギリシャ語で書かれた。キリストはアラム語しか話せなかったと思うのだが、なぜギリシャ語で書かれたかなどを考えると面白い。しかし、それは本稿の目的ではない。
 ヨハネ福音書の冒頭は一般に日本語では「はじめに言葉ありき」と訳される。ギリシャ語の「Λόγος」を「言葉」と訳してしまったがために非常に誤解を招く翻訳となってしまった。「Λόγος」にはもともと概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味があり、それを一つの単語に翻訳するのは、はじめから無理なことであった。
 ラテン語になったときも「ratio」と「oratio」の二つに分けざるを得ないような概念なのだ。
 学問にも流行り廃りがある。言語学の方も最近は意味論とか記号論、あるいは社会言語論が盛んになり20世紀中期流行の比較言語学というのは完全に片隅に追いやられている。だからこういう言語ごとに持つ単語の内包する概念というのはあまり論じられていないようだ。

「選択と集中」よりも「何を切り捨てるか」

曖昧な表現や言葉遣いはビジネスに悪影響をもたらすことが多い。最適な言葉を正確に伝えることが重要だ

 さて本題。
 前回は守・破・離ということで「勝ち目のない戦」や「利益が出ないビジネスへの固執」について書いた。今回は「選択と集中」という言葉に代表される、日本独特の曖昧模糊とした表現がビジネスに及ぼす悪影響を述べてみたい。
 いくつかのビジネス・ユニット(以下BU)を持つ企業において、先の見通しから「選択と集中」を考えるときに普通はどう受け取られるであろうか。これまでBU:Aで40%、BU:Bで30%、BU:Cで20%、BU:Dで10%の重要性を持つとして、それなりの予算を割り当てていたとしよう。
 ところが市場動向を見るとどうもBU:Aはうまくない、BU:Dをもっと重要視しようと考えた場合、それぞれのBUへの予算が例えば20%、20%、20%、30%となる。これが選択と集中の考えである。
 しかし、こういう場合、アメリカ企業で使われる用語は「Divestiture(服を脱ぎ捨てること)」や「Harvesting(刈り取ってしまうこと)」ということで、先の見通しが立たないものは「切り捨てる」のである。
 上例で言えばBU:Aは完全に切り捨てられるのだ。
「選択と集中」という言葉の裏にはどうもBU:Aは予算は減らされるが、何とか息の根は止められなくて済むような甘えが感じられる。

 実際の企業に例を取ってみると、いすゞ自動車はかつては117クーペのような乗用車も製造販売していた。しかし、乗用車部門は完全に捨て去ってしまい、今は大型のバスやトラックに専門化している。これはどう見ても「集中すべきものを選択した結果」というよりも、「切り捨てた」という方が適切な言葉遣いだと思う。
 選択して集中するのではなくて、まず「何を切り捨てるか」を考え、その結果、集中する先が見えてくることに気がつかなければならない。「選択と集中」ではなく(実も蓋もないが)「切り捨てと、結果としての、集中」を考えるべきであろう。
 ただ過度の集中はリスクを伴う。リスクの分散も当然考えなくてはならない。
 現在過度に中国に集中した結果大きなリスクを抱え込んでしまったのは誰の目にも明らかだ。
 そして、今度は「ミャンマーへ、ミャンマーへ」と草木もなびいている。「ここがダメならあそこへ行こう」というのは当然だが、本当に大丈夫なのか、カントリー・リスクはどうなのか、「みんながやるから俺もやる」というのではリスクの分散にはならない。
 大事なことは「他人とは違うことをする」という精神だ。
 それにはモットーとしての言葉遣い一つもシヴィアに考える必要があるということをこのヨハネ福音書の冒頭の言葉の翻訳が教えてくれている気がするのである。
 とにかく“言霊の国”日本なのである。言葉の選択一つでやる気が変わってくる。大事なことだと思う。


石原憲一(いしはら・けんいち)
1962年慶應大学卒業(英文学専攻)。日本Olivettiに入社し、ソフトウェア統括部長、子会社社長を経て、1982年GE(ゼネラルエレクトリック)社にて商用ネットワーク部門を担当、電通国際情報サービス常務取締役を兼任。1999年に退職後もGEに嘱託として残り、同時にKDD、シェル・サービス、JetFormの顧問やコンサルタントとして2003年末まで勤め、現在は長野県の森の中で隠遁生活中

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