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ドン・カルロの悲劇

ドン・カルロの悲劇

相手に結論を出させるのは甘え

相手も自分と同じ感覚を共有しているという前提は間違い。コミュニケイションにはコンテクストの共有の確認が必要だ(写真はヴェルディ:歌劇UCBG-9098/9、ユニバーサル ミュージック クラシック)

 第三幕(前述のDG盤では第二幕一場)の冒頭にドン・カルロとエボリ公女との二重唱がある。ここではドン・カルロが暗闇で相手を恋するエリザベッタと間違えて彼に恋するエボリに対して愛の言葉を吐く。一旦は喜んだエボリだが、それが人違いだとわかると怒り心頭に発し、ドン・カルロへの恨みを募らせる。そして悲劇が進む。
 暗闇とはいえ、間違えた相手に愛の言葉を告げるというのもおかしな話だが、ここにコンテクストをめぐるコミュニケイションにおける大きな問題が潜んでいる。

 われわれ日本人は何度も言うように外国との交渉事が下手である。その最大の問題は言語に帰するという(日本語は特殊)ことになっているようだ。確かにG8やG20の集合写真の時に日本政府を代表する大臣たちが誰とも会話を交わすことなく、ただ一人ぽつんとしているのを見るのは国民としてさみしい限りである。こういうところで堂々としていたのは中曽根さん、小泉さん、麻生さんくらいしか印象にない。

 閑話休題。
 しかしこういう状況はただ単に言語に帰すべき問題であろうか。そこには日本人が単一民族(この件に関しては異論もあろうが)であるがための高度のコンテクストを共有することに慣れすぎてしまった結果とも見ることができそうだ。(「High context communication」と「Low context communication」についてはお調べいただけると幸甚です)
 たとえば「明日の会合に行く足がないんだ」と言えば、「だからお前のクルマに乗っけてって」という意味だと相手には理解されることを期待していることになる。これはあまりにも簡単な例だが、一般にこの種の期待は日本人同士の会話においては通例である。「お母さん、おなかが減った」と言えば「何か食べさせて」という意味だ。
 このように自分が望むことをはっきり言わないで相手に結論を出させるというのは一種の甘えなのだ。

微に入り差異を穿つことが必要

 しかし、これは国際的には絶対に通用しない。英国に比べて、同じ英語を話していても、人種のるつぼともいうべきアメリカにおいてはこういう点は非常にはっきりしている。
 とにかく相手も自分と同じ感覚、同じ経験を共有しているという前提は間違いなのだ。これだけ国際的に縮まっている世界において、70億の民が同じ感覚を持っているということ自体が大変な誤解だ。ドン・カルロもエボリも最初は同じ「心」というか「場」(context)を共有していると思った。それが誤解とわかった時は、時すでに遅しであった。
 これだけ外国人とのコンタクトが増大していると、できるだけ微に入り細を穿って説明をしなければならないのだ。「そんなことはわかりきっているじゃないか」ということは絶対に通用しない。

 ドン・カルロも話しかけている相手がエリザベッタでないことを確認さえしていれば悲劇は生まれなかった。“Tu, Elisabetta?(おまえ、エリザベッタだね?)”と言ってコンテクストの共有の確認を取れば良かった。だがそうなったらこのヴェルディの傑作は生まれなかったのだが。


石原憲一(いしはら・けんいち)
1962年慶應大学卒業(英文学専攻)。日本Olivettiに入社し、ソフトウェア統括部長、子会社社長を経て、1982年GE(ゼネラルエレクトリック)社にて商用ネットワーク部門を担当、電通国際情報サービス常務取締役を兼任。1999年に退職後もGEに嘱託として残り、同時にKDD、シェル・サービス、JetFormの顧問やコンサルタントとして2003年末まで勤め、現在は長野県の森の中で隠遁生活中

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