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宿泊客の9割が外国人旅行者 小さな家族旅館が起こした観光革命

安倍政権の日本再興戦略。その柱のひとつに外国人観光客の大幅な増加がある。2013年には1000万人、2030年には3000万人規模への拡大を目標として掲げている。観光産業は世界規模でみれば140兆円市場。世界貿易での自動車輸出総額を凌ぐ規模を誇り、熾烈な旅行客獲得の争奪戦が世界各地で繰り広げられている。はたして日本の観光政策に勝機はあるのか。東京・谷中の日本旅館「澤の屋」は、1982年に外国人旅行客の受け入れを開始し、これまでに100カ国、15万人の外国人旅行者をもてなしてきた。現在では9割の宿泊客が外国人だ。館主の澤功氏は新興国の団体客ツアー獲得だけでなく、長期的な視点に立った個人旅行需要の開拓が重要だと指摘する。

外国人が泊まるわけがないと思っていた

 地下鉄千代田線の根津駅から不忍通りを根津神社方面に歩く。大きなキャリーバッグを抱えた外国人が、プリントアウトした地図、最近ではスマートフォンを片手に歩く。そんな姿はこの界隈ではごく日常の光景だ。彼らの目的は今宵の宿泊先である日本旅館の澤の屋。東京都内に残る数少ない日本旅館のひとつである。今では外国人客が9割を超え、しかも連日満室が続くことで有名だが、そのスタートはごく普通の日本旅館だった。
「澤の屋は1949年、家内の母が客室数8部屋で開業しました。私が妻と結婚し婿養子としてこの家に入ったのはちょうど東京オリンピック開催の1964年。当時は商用のお客様を中心に、春秋は修学旅行の団体、東京観光に訪れる新婚さん、それに予算編成時期には地方からの陳情団など連日多くの宿泊客で賑わっていました。1968年には木造から鉄筋3階建てに改築し24部屋に増室しました。当時は部屋があればあるだけ埋まるという時代。自分たちがさしたる営業努力をしなくてもお得意の会社からは出張客が毎月何人も来られるし、旅行代理店からは修学旅行の予約が何件も頂けました。そんな好景気を背景に、鉄筋に改築した時点で将来50室程度まで増やそうという具体的な青写真を描いていました。2代目として『澤の屋を大きくしたい』、『旅館業界で名をあげたい』という野心もありましたからね。ところが1970年の大阪万博が閉幕した頃から、どうも様子がおかしい、徐々にお客さんが減り始めてきたのです」
「都心部には多くのホテルが建設され、ドル箱だった修学旅行がどんどんそちらに移り、常連客だった出張のお客様も当時増え始めたビジネスホテルに取られ始めるようになりました。一般観光客もお風呂が共同、トイレも部屋にない旅館が敬遠されるようになったのです。経済成長とともに人々の収入が増え、生活レベルが向上していく中、昔ながらの日本旅館が特に都心部においては取り残される形になってしまったわけです」
「1972年、すぐ近くの不忍通りを走っていた都電が廃止され、ターミナル駅である上野からの足がなくなってしまったことも澤の屋には痛手でした。近くの企業に営業をかけても宿泊客の減少を抑えられません。私自身が新橋第一ホテルの宴会場でヘルパーとして働いたり、木造の旧館を10部屋のアパートに改築したりして、何とかギリギリで生活していくという状態でした。そうした中、親しくしていた新宿の矢島旅館のご主人、矢島恭さんから『澤さん、日本人客が減ったなら外国のお客さんを泊めたらどうだい』と助言を頂きました。矢島さんは外国人客を受け入れる先駆的な活動をいち早く始め、1979年にはジャパニーズ・イン・グループという旅館組織の設立に尽力された方です。ただそうは言われても英語は話せない、しかも純和式の旅館で外国人客を受け入れられるとは到底思えませんでしたし、だから『矢島さん、うちには無理です』と言い続けていました」
 だが宿泊客の減少は一向に止まらない。そしてその日はやってくる。
「客室稼働率60%が旅館経営の採算ラインと言われますが、澤の屋では1981年になると50%を割り赤字経営の状態が続きました。なんとかアパートの家賃収入などで生活を支えていましたが、翌1982年の7月、宿泊者ゼロという日が3日間続いたのです。澤の屋にとって初めての経験であり、この時には『もうダメだ』と思いました。そして矢島さんの『外国のお客さんを泊めたらどうだい』という言葉を思い出したのです。翌日には矢島さんのもとを夫婦で訪ね、外国人客受け入れの様子を見学させてもらいました」
 藁をもつかむ思いで新宿の矢島旅館を訪ねた澤夫妻は、そこで何を見たのか。
「3日間宿泊客ゼロの澤の屋に対し、矢島旅館さんは外国人客で溢れ返っている。満室なのに次々と直接『部屋は空いてないか』と訪ねてくるお客様が後を絶たない。全12部屋、バス・トイレ付きが2部屋、全部和室でトイレも和式と矢島旅館さんは澤の屋とまったく変わらないことも驚きでした。しかも矢島さんの話している英語は私でも聞き取れるレベル。『ウィー・ハブ・ルーム』『オーケー、オーケー』というように。施設もそう変わらない、しかも矢島さんには失礼ですが『この程度の語学力なら私どもにもできるのかもしれないね』と妻と話し合い、ジャパニーズ・イン・グループへの加入を決めました。何より私たちにはもはや選択の余地は残されていなかったのです」

文化の違いを受け入れることから始める

 グループに加盟し外国人宿泊客を受け入れた初年の1982年は230人が宿泊。まだ宿全体の5.5%ほどに過ぎなかったが、翌年には3158人が宿泊、全体の約6割を占め、澤の屋の客室稼働率も82%台に急回復する。
「インターネットもメールもない時代。当時の旅行ではパンフレットや旅行ガイドブックくらいしか情報源がありませんでした。矢島さんらを中心に少ない予算ながらグループ旅館のパンフレットを年2回7万部ずつ作り、それを観光案内所や各国の大使館などに送付してPRを行いました。大使館に民間企業のパンフレットを送りつけ、実はクレームや『もうこんなものは送ってくるな』と怒られるのではないかと内心ヒヤヒヤしていたのですが、ある大使館から『高級旅館やホテルの情報はあるが、古くからの日本旅館の情報がなくて困っていた、ありがとう』と逆に感謝の手紙を頂きました」
「外国人旅行者の中には日本の庶民の暮らしや日常を体験したいという希望はたくさんあって、旅館にも興味を持っている人は多かった。けれど、どうやってそこにアクセスしたら良いか情報がない。だから仕方なくホテルに宿泊していたという潜在的な顧客が実はものすごく多く存在していたのです。だからほんの少しパンフレットを配布しただけで、その反応がすぐに数字として表れたのだと思います」
 澤の屋は年を追うごとに外国人宿泊客の比率が増えていく。矢島旅館を見て「私たちにもできそうだ」と始めた外国人客対応だが、そこに苦労はなかったのだろうか。
「外国人対応を始めたからといって設備を大きく変える予算などありません。受け入れをしながら問題が出てくればそれに対応するという形で徐々に体制を整えていきました。もちろん苦労がなかったか、と問われれば、『まったくない』というのは嘘になります。当時まだ残っていた和式トイレの使い方が分からず、使用後にトイレがひどく汚れていたとか、風呂場のお湯を入浴後に全部抜かれて一から沸かし直す、なんてこともたびたびありました。しかし『もう外国人は嫌だ』と言っていたらそれで終わりです。ですから私たちはまずそんなトラブルを文化習慣の違いからくるもの、と考え、その違いを受け止めた上で、宿泊客に日本のやり方、日本のルールを理解してもらうように努めました。たとえば用を足した後に紙を使うのは当たり前だと思うかもしれませんが、実は世界的に見ればそれは半分くらい。水で洗い流す国の人が何も知らなければ、そのやり方でするしかありません。入浴後に風呂の湯を抜くのは、次の人に使用した湯を残すのは失礼という欧米人のマナーであって、けっして嫌がらせでやっているわけではないのです。風呂場やトイレなどにその使い方を丁寧にイラスト入りで記した説明書きを張り出すと、そうしたトラブルは徐々になくなっていきました。むしろ彼らは『そうかジャパニーズスタイルはこうなのか』と面白がってくれました」
 心配された言葉はどうだったのだろう。
「結果として言葉はまったく障害になりませんでした。外国人客を迎えるにあたって、当時中学生だった息子の英語の教科書を借りて使えそうな言葉を丸暗記し、それなりに努力しましたけれど、発音が悪いからうまく伝わらない。また早口で喋られるとこちらが聞き取れません。けれど単語英語でもなんとかなるもの。コミュニケーションを取ろうとする意志の方が重要なのです。30年以上外国人を受け入れていますが、私の英語力は少しは向上したかもしれませんが、基本は単語英語のまま。それでも宿泊されたお客様からは『Your English Good!』と言われます。お世辞と分かっていても、それでますます勉強しなくなりました(笑)」
「外国人客を受け入れて間もなく、東京藝術大学に留学しているフランス人のお嬢さんから『両親が1カ月日本に滞在するから、その間の宿泊をお願いしたい』と依頼を受けました。英語はもちろんフランス語なんてまったく分からず、どうしようと思ったのですが、娘さんが近くにいるのなら何とかなるだろう、と思いお引き受けしました。ところが娘さんはほとんど宿に来ない。それでもフランス人のご両親を身振り手振りでなんとかおもてなししました。ご両親が帰国してしばらくして娘さんが訪ねてきて『すごく良い宿だって言って満足して帰りました、どうもありがとう』と言われ、家内と二人で『1カ月ほとんど言葉も交わせなかったのにね』とびっくりしました。コミュニケーションは大切で、言葉ができればそれに越したことはありません。けれど言葉ができなかったとしても『もてなす』気持ちがあればなんとかなるものなのです。澤の屋に入ってきて『自分たちは歓迎されているのか、それとも敬遠されているのか』、おそらくそれは私たちの態度で瞬間的に分かるのだと思いますよ」


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